昔のブログ~自分語り編
ロックと出会ったのはいつだろうか?(2018年05月22日)
1番はじめなので自己紹介とか自分の音楽歴なんかを書いていこうかと思ってたけど、簡単なのはホームページに書いてあるし、しっかり書くと長文になっちゃうんで、それはまたの機会にということで、今回はその中でも、ロックと出会った頃を思い返してみようと思う。
といっても、正直言ってそんなこと覚えちゃいない。幼稚園の頃に見ていたポンキッキでビートルズが流れていたのを覚えているので、それが一番古い記憶ではある。ただ、この時に何かを感じたなんてことはない。
そのあとというと記憶は定かではない。たぶんツイストやサザンオールスターズだろうと思う。
ロックのビートを好きだと思ったのと同時にバンドというものを意識したのは横浜銀蠅だ。リーゼントに革ジャンといったルックスが一世を風靡したが、サウンド自体は純粋なロックンロールで、身体が勝手にリズムをとった最初の記憶だった。
たぶんこれが音楽としての「ロック」との出会いであろう。この後ハードロックや、いわゆるヘビーメタルというものと出会い、自分もバンドを始めることになって行く。その中に横浜銀蠅の音楽的要素は含まれることはほとんどないが、中身だけでなく見た目も重要という部分に関しては影響を受けたと言えるかも・・・。
趣味は楽器いじり?(2018年5月31日)
本格的に楽器を始めた頃から、履歴書などに趣味を書く場合には「音楽」を入れている。バンド活動が人生にとてつもなく影響を与えてはいるが、プロ志向のバンドで活動した訳では無いので、あくまでも趣味である。
20代半ばでバンド活動を辞めてからは、遊びで個人演奏をするか、昔やってたという仲間と出会うと遊びで合わせたりする程度で、本当に数ある趣味の中の一人になってしまっている。そんな状態にもかかわらず、家には楽器が大量。その理由は「楽器いじり」も趣味だから。「楽器いじり」というのは、楽器のリペアや再生、改造などのこと。
ちょうどガンプラ世代で、ホビーやらDIYが好きな私が、ハードオフというジャンクの聖地に出会ったのが、かれこれ20年前。どっか壊れているギターやベースを買ってきては修理したりパーツ交換したりしているうちに詳しくなってしまい、今では塗装やらフレットの打ち換えや擦り合わせなんかまで手を出すように。一時期は直した物をヤフオクで売っていたぐらい。娘が高校の学祭で使ったギターもすべてジャンクからの再生品。
この楽器いじり、ほとんどの知識はネットの個人ブログなんかから得たもの。だから、フィードバックじゃないけれど、これからこのブログでも、この楽器いじりを紹介していければと思っている。
ちなみに、こういった作業をリカオンCWMが仕事として引き受けている訳では無いのでご注意を。人様の楽器を預かってメンテナンスやら改造したりという自信はないので。まあ、1万円台のギターぐらいなら考えてもいいけど・・・。
はじめて人前で演奏した曲(2018年07月07日)
はじめて人前、不特定多数の人の前で楽器を演奏したのは、たぶん幼稚園の鼓笛隊だと思う。小太鼓(スネアドラム)や鍵盤ハーモニカだった。正直どんな曲だったか覚えちゃいない。
それと同じ頃、ヤマハ音楽教室の発表会でも演奏している。2年間のうちのどちらかはエレクトーンの足だけだった記憶がある。こっちもどんな曲だったのか覚えちゃいない。
まあ、そんな自分の意思に反した人前での演奏はどうでもいい。幼いながらに人前で演奏する度胸はついたのかもしれないが。
で、本当の意味での人前での演奏、要するに初ステージだが、それは中学3年の文化祭である。課外活動としての部活動ではなく、授業時間内に行われる必修クラブと呼ばれるもので「弾き語りクラブ」というのに所属していた。
弾き語りということなので、初めに個々に楽器を演奏し歌うというのはやったが、実際の活動は軽音部のようなものだった。
本番までに色々と紆余曲折があったのだが、それはまたの機会として、今回は選曲について語りたい。
メンバー4人で、それぞれ自分のやりたい曲を持ち寄ったのだが、これが何とも統一性がない。マイケルシェンカーグループ、ミック・ジャガーのソロの曲、今で言う80’sポップスの何か(忘れたw)【2024年にネバーエンディングストーリーだったことを思い出し追記】、ボンジョヴィ(私)という具合。でも、MSGもPOPなナンバーだったし、鍵盤が前面に出ていたので、あながち統一性がないとも言い切れないかも。
最終的にジャンケンで優先順位を決定した。なぜ優先順位かと言うと、耳コピなんてできるわけもないので、バンドスコアが出ていることが条件だったから。
で、ミック、MSG、BONJOVI、POPSとなるが、最終的に決定したのはBONJOVIのRunaway、私の選曲。正直、MSGなんて絶対あると思ってたのだが、何故かその曲だけなかった。
他の女の子バンドはレベッカだったり翼の折れたエンジェルだったりする中、洋楽ハードロックでステージに立つことになるのだった。
ちなみに当時のボン・ジョヴィは、やっとセカンドアルバムが発売された頃で、世界中で爆発的に売れたサードアルバムまでまだまだで、洋楽ファンの間でも知る人ぞ知るという存在だった。かなりマニアックなものを中学の初ステージで選んだものだ。
なぜドラマーになったのか(2018年07月12日)
初めてバンド形式で演奏したのはキーボード。中学生だった当時、できる楽器は鍵盤だけだった。ちなみにピアノのような重い鍵盤は弾けなかった。
その後、きちんとバンドを組んで担当した楽器はドラム。その間に一体何があったのか・・・。
初ステージは中学三年、1985年のこと。翌86年にギタリストと同じ高校に入学し、継続してハードロックバンドを組むことになる。
だが、そこでキーボードは続けなかった。なぜか。理由は簡単。その頃はやっていたハードロックバンドにキーボーディストがいない場合が多かったから。当時大ヒットしたVAN
HALENやBONJOVIはキーボードがあったが、一世を風靡したLAメタルなどは、ほとんど入っていなかった。ちなみにVAN HALENでキーボードを弾いているのはギターのエディだし。
で、そこで新たに楽器を始めようと思ったわけで、目をつけたのはベース。本気でベース買うつもりでいた。しかし、そんなある日、妹がドラムを習いたいということになり、突然父親がドラムセットを買ってきた。防音設備もないのに
笑
まあ、こんな恵まれた環境にいるのにドラムをやらない理由はない。ドラムにも興味があったし。ということで、ある日突然ドラマーとなったわけである。
そして、ドラマーとして、そのギタリストと共にやっていたハードロックバンドでプレイしていくのだが、それと同時に中学で一緒にやっていたベースボーカルがボーカルをつとめるパンクバンドでもドラムをプレイすることになる。
彼は別の高校に進んだのだが、私の高校のクラスメイトが彼と知り合いだったという偶然があり、そこから話が伝わって、楽器店主催のライブに出たのである。
で、私のパンク好きはここからスタートするのである。
なぜベーシストになったのか(2018年08月15日)
前回、ドラマーになった理由を書いたが、ドラマーになった翌年ぐらいにはベーシストになってしまったのである。今では現役ではないものの、自分は生涯ベーシストであろうと思っている。
家にドラムがあるというこの上ない好条件にいたのに、なぜドラムを辞めたのか。それはただ単純に「目立たないから」。こう書くと世間のドラマーから文句を言われそうだけど、それがすべて。ステージ前方で動き回りたかった。それだけ。
こんな音楽的でなく不純な理由でベーシストになったわけだが、それには理由がある。それは、80年代を代表するポップバンド、Duran Duranのベーシスト、ジョン・テイラーがカッコよかったから。少なくとも私には彼が一番ステージで目立っているように映った。ビジュアルが良く女性からの絶大な人気があったせいか、サウンド的にも結構ベースの音が前面に出ていた。で、ドラムを始める前から、ベーシストってカッコいいと思っていたのである。
ただ、ドラムが嫌いになったわけではなく、パンクバンドではずっとドラマーとして高校卒業まで続けていくことになる。ドラムで培ったリズム感は、ベースを弾く上で一番必要かつ身につけるのが容易ではないものなので、ドラムをやっていたことは無駄だったとは思っていない。ドラムを叩くのはとても楽しかった。単純に演奏する楽しさではベースよりドラムのが上だと思う。
こうして、初めて好きで始めた楽器であるベースが、生涯弾き続けたい楽器となったのである。
実はギタリストになりたかった(2018年09月01日)
キーボードにはじまり、ドラマーを経てベーシストになった経緯を、このブログで書かせてもらった。ボーカルは人に聴かせるほどの歌唱力ではないが、ワンフレーズやワンコーラスなら歌ったことはある。けれども、ステージでギターを演奏したことは一回もない。
実は、ギターやりたいと思ったことは数え切れないほどある。自分は普段、決して目立つ存在ではなかったのだが、ステージに上がるという快感を体験してからは、ステージ上では目立っていたいという思いが常にあった。で、ステージで目立つのはボーカル、そしてギタリストである。なのに、なぜギタリストにならなかったのか。それは、いつも尊敬に値するほどのギタリストとバンドを組んでいたから。
私が音楽の世界に入るきっかけとなった中学~高校のギタリストは、本当にすごい奴だった。中学生ながらテクニックは楽器屋で自慢げに弾いている年上のやつらよりも当然あった。だがそれよりも、きちんと他の楽器を聞いて弾いているのが自分にはすごいと思っていた。だから自分がギターを弾こうなんて思いもしなかった。サイドギターというポジションを狙うこともできたのだが、私はドラムやベースの道を選んだ。それぐらいのやつだった。彼は高校を卒業してから上京し、私も地元を離れた大学に行ったので連絡は途絶えていたのだが、それから28年後、Twitterで再会を果たす。彼はプロのギタリストになっていたのだった。
高校を卒業し、大学で地元を離れて新たな生活が始まるのだが、実はその前の春休みにギターを始めるつもりだった。それぐらいギターが弾きたかった。バイトでお金も貯まり、あとは楽器屋にいくだけだった。が、新生活のためにバイクとCDラジカセを買った。で、お金はなくなった。とはいっても、またお金をためてギターを買うはずだった。
大学に入り寮生活となった。私の大学は、基本的に自宅通学以外は2年間寮生活だった。入学して早々に、自己紹介を載せた印刷物を作るということで原稿が来た。女子寮にも配布されるものなので、カッコつけて「ハードロックとパンクのバンドやってました」「ベースとドラムできます」と当然のように書いたわけだが、出来上がった印刷物が配布されたその日のうちに、自分の部屋に2人の男が訪ねてきた。2人はドラマーとギタリストで、一緒にバンドをやろうというお誘いだった。そのギタリスト、彼がまたうまい。テクニックももちろんだが、力強いギターを弾くやつだった。音楽的趣味もぴったり。もう一人のドラマー、この彼もいいドラムをたたくやつで、この2人といっしょにずっとベース弾きたいとおもうやつらだった。
それから1年後、後輩にギターのすごい奴が入ってきた。まずはサポートとしてやってもらったのだが、彼はどちらかというと繊細な感じのギタリストで、この2人が奏でるツインギターは最高だった。彼はその後、同級生とバンドを組むべく色々模索していながら、我々のバンドでも演奏してくれていたのだが、いずれもメンバーが固定しないようで、最終的にはうちのバンドのメンバーとして弾いてくれた。
という感じで、この3人のギタリストがいたがために、私がステージでギターを握ることはなかった。私がギターを初めて買ったのは、地元に戻り、子供が生まれ、もう本気でバンドをすることもないと感じ始めてから、完全に趣味としてギターを始めた。ギターを弾きながら子供と歌ったりといったことだけだった。
時は経ち、その歌っていた娘が高校生になって、学祭のステージでギターを持って歌っているの見ることになる。自分のギタリストの夢は、娘がその意思を受け継ぎ、かなえてくれたのである。